· Ochibanodance

数年前の話。

毎朝の日課のランニング中、いつもの田んぼ沿いの農道を走っていると、地面に翼を広げて伏している一羽の雉鳩を見つけました。一旦はそのまま走り過ぎたのですが、気になって戻ってみると案の定けがをしているようでした。捕まえて良く見ると、片方の翼にけがを負っていて飛ぶことが出来ない様子。どうしたものかとしばらく思案したのち、傷ついた野生動物は保護しなければならないという思い込みから、保護することにしました。後に知りましたが、保護対象になる野生動物は、原則として、車にはねられたりいたずらされたり、明らかに人間に危害を加えられた場合に限られています。
そんなこととはつゆ知らず、2kmほど先に動物病院があるのを思い出し、ハトを小脇に抱えて走りだしました。ハトは翼の根元を骨折していてそこから出血があり、私の脇から胸辺りは徐々に血に染まりました。駅に近い細い道で、出勤時間帯といこともあり沢山の人や車とすれ違うなかスピードを上げて病院へと急ぎました。

動物病院は開院時間前でしたが事情を話し診察室に入れてもらいました。しかしそこにいた老齢の男性獣医師は開口一番、
「野生の動物はほっときゃいいんだよ。野生の中で生きて行くのが自然の姿なんだから。」
と厳しい目を私に向けました。
さすがにこの言葉にはうろたえました。それでも獣医師はすぐに手術用のヘッドセットを装着し手術に取り掛かってくれました。翼が骨折していたようで、
「これはもうくっつかないかもしれないな。」
と獣医師は言いました。
「助かりませんか。」
と私が聞くと、
「どうだろう。血が止まれば助かるかもな。でももう飛べないな。」
手術が終わるまで間近で見ていましたが、獣医師の手技は見事なもので、よどみない手さばきで患部を開いて骨折箇所に固定具を添え、翼を動かせないように包帯で巻きとめて手術は終わりました。
「とりあえずこれで様子を見よう。」
獣医師は少しほっとした顔を見せました。その日私は仕事で夕方まで来れない旨伝え、それまでハトを預かってもらう事にしました。

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夕方になり動物病院に戻ると、開け放たれた診察室の扉の向こうで獣医師がハトの亡骸を新聞紙にくるんでいるところでした。
「昼過ぎまでは息があったんだけどな。ついさっき見たら死んでたよ。」
獣医師が抑揚のない口調で言いました。
「そうですか。」
と私が言うと、
「でも良かったんじゃないか。最後に人間の温かい手と心に触れられて逝ったんだから。良かったんだよ。」
と、獣医師は一瞬和らいだ表情を見せました。

ハトを預けて戻るまでの間、獣医師が最初に発した言葉がずっと心に引っかかっていました。確かに、野生動物は野生の中で起きた出来事を全て自然の事として受け止めて生きていかなければなりません。傷ついたり病気で弱っている野生動物を見つけても、そのまま放っておくべきなのでしょう。考えてみれば当たり前のことで、そこに気が付けなかった事が恥ずかしく、余計なことをしてしまったな、という思いでいたので、獣医師のその言葉には救われた思いでした。
最後に、
「治療代はおいくらですか。」
と聞くと、
「いいよ、いいよ、いらないよ。このくらいボランティアでやるよ。」
と、大きな声で返されてしまいました。
ハトの亡骸は家に持ち帰り、庭に埋めてやりました。
そんな出来事のあとしばらくして出会った本が、
『ある小さなスズメの記録 人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯』クレア・キップス著 梨木香歩訳 文春文庫(2015)
です。
一人暮らしの寡婦であるキップス婦人が、まだ羽毛も生えていない小さなスズメを拾い、クラレンスと名付け、12年に渡り生活を共にした記録です。
感想を一言で言えば、まさに珠玉の物語。話の面白さもさることながら翻訳が素晴らしくどんどん読み進めてしまいます。どこにでもいるあのスズメがこんなにも愛おしく感じるなんて思ってもいませんでしたし、小さな命が起こす奇跡の数々に感動するばかりです。
訳者はあとがきの中で、
「いつまでも手元に置いて訳し続けていたかった気がする。」
と言っていますが、良くわかる気がします。読み終えてしまうのがほんとうにもったいない、どうかこのまま終わりが来ずにこのままいつまでも読み続けていたい、そんなふうに思いながら読んでいました。読み終えれば、静かな感動が美しい思い出ともに心を満たし、余韻はいつまでも永遠に続くかのようでした。
本の中でキップス婦人は
『「動物は本来いるべき場所に留めておくべきだ」ということには賛成だが、人間はそれがいかなる場所であるべきか、ほとんど忘れてしまっているのではないだろうか。そういう人間は、概して、彼の責任義務を、いわゆる動物レベルに貶めてしまっているのではないだろうか。』
と問います。
私たち人間は地球の支配者のように振る舞っています。しかし、自然環境を破壊し野生を奪うのであれば、そのことに対して道義的責任を持たなければなりません。獣医師は野生に干渉するなと言いましたが、野生への干渉なしに人間の生活は成り立ちません。人間はそのことを、立ち止まってよく考えなければならないのではないでしょうか。訳者が文庫版のあとがきの結びに述べた言葉が、これ以上ない重みを伴って胸に響いてきます。

“とるに足らない命” などこの世に存在しないということを教えてくれた小さなスズメ。
救える命は、皆さんの近くにもあるかも知れません。

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